「セラ、その目撃した連中は何をしていたんだ?」 男の声が沈黙の間を縫うようにして室内に響いた。油断のない鋭い目をしている。 セラは少しだけ目を見開いて、首をすくめた。「森の中で何かが光っていた。青白い光……。怪しく不気味で周りの空気まで揺らぐような感じだった……」 セラの顔に不安の影が宿る。「青い光……」 男の眉がわずかに動いた。「おそらく、それは鉱石が発した光だ。最近、あちこちで聞くようになった」 男は虚空に視線を投げて、呟くように言った。発せられた言葉が部屋の空気を重くする。 男は言葉の重さを測るように一拍、間を置いた後、さらに続けた。「街道沿いの崖が崩落したのは、それが原因だろうな。外からの圧力というよりは、内側からの力。地盤そのものが崩れていた。変色した土、硬質化した葉や根──。自然現象という奴もいるが、さすがにそれはない」 重い沈黙がまた一つ、部屋に降りた。 あれは何かを壊すための光…… セラの胸の奥に、あの青白い光がじわじわと蘇る。無意識のうちに、セラの手が膝の上で固く結ばれていた。「それがエクレシアの内部でも起きてるってこと?」 セラの声音は驚きよりも、すでに内側で答えに気づいてしまった者のそれに近かった。「そう考えるのが自然だ。運河を流れる水にも影響が出ているという話だからな。内部で何かが起きていると見て間違いないだろう」 男は頷きもせず、ただ言葉だけを置いた。言葉の先端が空気に沈んでいくような間を挟み、男はさらに続ける。「目撃された五人が資源採掘の為だけにエクレシアに足を踏み入れたとは考えにくい。もっと深い目的があるはずだ」 セラの喉がかすかに動く。 何かが確実に崩れている──そんな直感だけが、胸の奥に輪郭を持ち始めていた。 二人の遣り取りを見守っていたアリシアが口を開く。「リノアが言ってた。森が息をしていないみたいだって」 アリシアのひと言が場に張り詰めた糸を一本、ぴんと弾いた。 言葉を選ぶのではなく、すでに胸の中で何度も反響した想いを、ようやく外に出したという感じだ。肩の力は抜けていて、表情も変わらない。 森が息をしていない── それは比喩ではなく、自然に囲まれて生きる者たちなら直感で察していたことだ。特にリノアや、その兄のシオンは敏感に感じ取っていた。 たしかに兆しはあった。 森の緑は褪
──ヴィクターの暴走は、どんな手を使ってでも止めなければならない。それはリノアの為でもある。「グレタに関する調査報告書だ」 男はそう言って、アリシアに資料一式を手渡した。紙の角が擦れる音が、静まり返った空間に小さく響く。 アリシアは紙束を受け取ると、そのうちの一枚にそっと指をかけた。ページがめくられる音は小さく、まるで誰にも気づかれたくない秘密をほどくかのようだった。 アリシアの目が文字をなぞる。 筆跡は整っている。だが、気になるのは所々に筆圧の揺らぎ…… それは記録というより、祈り、隠しきれない焦燥、そして届くかも分からない誰かへの報せ。 紙の上に残されたその情熱が、記録以上の意味を持っていることをアリシアは感じ取った。 アリシアは視線を宙に泳がせ、長い睫毛の影に言葉にならない感情を沈めた。そして、ゆっくりと息をつく。 これは、ただの報告ではない。意志の痕跡だ。《禁足地・エクレシア領域外縁にて複数の不審人物を確認》・対象は五名。先頭はグリモア村村長・グレタとみられる人物、ならびに大型の剣を携えた女戦士。・残る三名は黒のマントに全身を包み、詳細な特定は不能。・全員が禁足地領域内部より出現したと推定されるが、侵入時の記録は存在せず。・目的不明、 アリシアは報告書に目を落としたまま、一点を見つめた。これらの文字の先に踏み込まなければならない真実がある。そんな予感が脈のように鼓動を打ち始めていた。 沈黙の中、アリシアは、そこに刻まれたわずかな綻びすら読み取ろうとするかのように、丹念に文面を追った。「五人……それに黒いマント?」 セラが報告書を覗き込み、目をぱちぱちと瞬かせた。「クローブ村の近くで見た人影も同じくらいの人数だったよ。しかも全員、黒いマントを着てた」 その声には驚きとほんの少しの不安が混じっていた。「五人は居たかな。怖くて近寄れなかったから、どんな人たちなのかまでは分かんなかったけど……」 セラの声の調子は軽いが、その目に浮かぶ色は真剣そのものだ。「五人一組で動いているのかもしれないね。組織的なものかも」 アリシアは報告書の文字を追いながら、淡々と推測を述べた。 一つの偶然なら見過ごせる。だが、二度、同じように現れた五人という数字に、偶然という言葉は当てはまりそうにない。 アリシアの視線は紙の上にありながら、
アリシアはそっと葉に手を伸ばした。 指先が葉に触れる寸前で止め、その輪郭を空気越しになぞるように滑らせた。 触れてしまうと壊れてしまうのではないか──そんな、ためらいを含んだ仕草だった。「その葉がここに存在するということは、誰かが禁足地に足を踏み入れたことを意味する。許可なくな」 男の口調は穏やかだったが、その言葉の端々には、長い時間を共にした土地への執着が見え隠れしている。 アリシアは男の沈んだ声に耳を傾けながら思った。 誰もが外の者に寛容でありたいとは思っている。だが脅威になるなら話は別だ。それは、この土地だけの話ではない。どこの村や街でも同じはずだ。「通常ならエクレシアには行くことはできないが、グリモア村の村長・グレタなら話は別だろうな」 男はそう言いながら視線を伏せた。 その顔には言葉にしきれない懸念と思案の影が深く差している。静寂の中に土地の名が落ちるたび、空気がわずかに揺れた。 アリシアの視線は小さな葉の中心を捉えたまま動かない。触れることもせず、ただ記憶の形を掬い取るように、そこにある微かな存在を見つめていた。 男はしばらく沈黙を保っていたが、やがて顔を上げるとアリシアに視線を向けた。「一つ聞いていいか? ヴィクターというのは、どういう男だ? アークセリアに入ってからの足取りは、ある程度分かっている。だが、そいつがクローブ村にいた頃のことは、俺の網にはかかっていない」 沈黙の合間に男の目が細められる。「禁足地に足を踏み入れるような人物なら、それ相応の背景があるはずだ。お前は、どこまで知っている?」 男が探るような目でアリシアを見た。 緊張が場を満たしていく。 エクレシアに足を踏み入ることができる人物が、並の者であるはずがない。ヴィクターが本当に、その場所に行ったのなら私の知らない顔を持っていることになる。 アリシアは男の問いに心を巡らせた。 ヴィクターの顔が脳裏に浮かぶ。 いつも少し距離を置いて物事を眺め、誰かの背に隠れるようにして歩く男だった。ずる賢いところは確かにあったが…… それでも、かつてのヴィクターなら、決して禁じられた地に踏み込むような真似はしなかったはずだ。そのヴィクターが道を外れ、あのグレタと手を組むなど考えられない。 そう思っていた…… しかし現に、この葉がここにある。 ヴィクターがあ
「お母さん、どこ?」 涙がこぼれ落ちそうになるのを必死にこらえ、リノアが小さな声で呟く。しかし、母の姿は見えない。 ただ風が木々を揺らす音だけが聞こえる。「お母さん!」 我慢しきれず、リノアは立ち上がって、母が消えた方向へ駆け出した。「リノア。まだ、ここにいた方がいいよ」 どこからか聞こえる優しく、包み込むような声── 幼い頃のリノアが一瞬、立ち止まる。だけど振り返ることなく、そのまま森の中へと走り去っていった。 その気持ちは良く分かる。今、行かなければ、もう一生会えなくなってしまう。──私には止めることができない。 幼い頃のリノアが母の名を呼びながら枝葉をかき分けていく。 その小さな背中が遠ざかっていくのを見届けていた時、ふいに風向きが変わった。 この焦げた匂い── 封じ込めていた記憶が熱を帯びて変質していく。 リノアは目を細めた。 森の彼方で、橙と紅の光が揺らめいている。──あれは火事だ。 記憶の底に沈んでいた光景が、ゆっくりと浮かび上がる。 あの時も、火はこのオークの大木まで迫ってきた…… 風が熱を運び、葉擦れの音がざわめきのように乱れ始める。 森の奥で橙色の閃きが跳ね、バチッ、と乾いた音と共に時おり遠くの枝が爆ぜた。 だけど、まだ火の手はそこまで届いていない。──今なら、まだ間に合う。「戻ってきて……お願いだから」 リノアは祈るように声を張り上げた。しかし返事はない。返答の代わりに返ってきたのは、燃え広がる息吹だった。 熱のうねりが地を這い、木々の間をすり抜けていく。 静けさはもう、どこにもない。 リノアはその場に立ち尽くしたまま、その炎の中に目を凝らした。 あの時と同じように激しく森が燃えている。 葉の縁を焦がす匂いが立ち込め、熱を含んだ空気がじわりと皮膚を撫でた。 乾いた火花が、音もなく風に舞う。 記憶の裂け目からこぼれ落ちる断片のように──「どこにいるの……戻ってきて!」 焦燥に突き動かされたリノアは木々の間を駆け出した。 燃えさかる影と光が幾重にも折り重なり、世界が赤く脈打つ。 炎が森を飲み込んでいく……リノアの声も、想いも…… あきらめかけた、その時── 開けた一角に幼い頃の自分がいるのが見えた。 炎の色も熱も届かない、時間が降り積もるような静けさの中、 ただ一人ぽつんと
影の中で揺れるエレナの姿が見える。 記憶の底に沈み、穏やかに微笑むエレナ── エレナを救わなければ。 リノアは、その微笑みに導かれるまま、そっと手を伸ばした。それは触れるというより、記憶と夢のあわいにひとすじの祈りを浸すような動作だった。 触れた瞬間、世界がわずかに揺らいだ。 冷たくもなく、熱くもない、境目のない感触———— ひとしずくの沈黙が降り立ち、見えない波紋が空気の奥深くへと広がっていく。幾重にも折り重なった空気の層がたわみ、世界の輪郭が緩やかにほどけていった。 世界の色が失われ、音が遠ざかっていく…… ◇ 懐かしい風の匂い。そして、どこか遠くで私を呼ぶ誰かの声── 気づけば、そこには森が広がっていた。 木々の影が長く伸び、空がやけに高い。 リノアは目の前に聳え立つ大きな木を見つめた。幹は両腕では抱えきれないほどの幅を持っている。 その木の根元に佇む一人の幼い少女──「ここで待っていて。すぐに戻ってくるから」 そう言って、背を向けて去っていく母の姿……──これは幼い頃に見た、あの日の光景だ。 その背中を見送った時のことはよく覚えている。空の色も、風の匂いも何もかも。 追いかけたいと、本心では思っていた。だけど私はその場から動くことができなかったのだ。 母を困らせてはいけない。言いつけは守るべきだと思っていたから…… 足に絡みつく”待つことの正しさ”という名の鎖。それが、どこかひどく冷たかったことを私はずっと言葉にできずにいた。 あの時、なぜ追いかけなかったのだろう── なぜ、あのとき声を上げなかったのだろう──「……ずっと後悔してた」 呟いたその声は、年を重ねた今のリノア自身のものだった。 幼い頃の自分と今の自分が緩やかに重なっていく。 胸の奥にぽっかりと空いた空白は、どこか風の抜ける静かな窪みに似ていた。 それは「寂しい」と一言で括るにはあまりにも深く、静かで、形のないまま棲みついていた感情。 それが自分の中にずっと在り続けていたことを──今、ようやく知った。 リノアは幼い日のリノアに近づいていき、何かを取り戻すように、そっと身を寄せた。 温かさも言葉もない、ただ沈黙だけが二人の間を満たしていく。 振り返らない母の後ろ姿をじっと見送った小さな存在。 どれだ
男は手にしていた封筒を少し傾けて重さを確かめると、それを机の上へ滑らせた。 木の表面を紙が這うわずかな擦過音が、沈黙の空間にやけに鮮明に響きわたる。 アリシアの前でぴたりと止まる封筒──「中は見ても構わない。ただし──理解できるかは別の話だ」 男の手つきには一切の虚勢も演出もなく、もはや試すような気配もない。こちらに、すべてを委ねている。 アリシアは封筒を手元に引き寄せて、封の切れ目に指を滑り込ませると、ひと息で破った。 中から現れたのは、羊皮紙のような質感を持つ古びた報告書と、乾いた葉を挟んだ一枚の地図だった。 黄ばんだ報告書の端には日に焼かれたような跡が走り、所々、文字がかすれている。「この葉は?」 折りたたまれた地図に押し花のように挟まれた葉……。 その葉は生命の気配はないが、不思議と色褪せてはいない。「それは境界を越えた者が持ち帰って来たものだ」 アリシアは視線を地図の上に走らせた。「どいつもこいつも他所の者は素知らぬ顔をして、この地を蹂躙する」 ぽつりとこぼれた言葉に苦々しさが混ざる。「だがな……この土地は生きているんだ」 男は背もたれに身を沈め、アリシアの手元をじっと見据えた。「敬意と畏れを忘れた者には罰を、触れた者には代償を払ってもらわなければならない」 男はそれ以上、何も言わずに口を閉ざした。 それは耳に届かぬ誰かに向けて、幾度となく語り続けた者の声だった。もう語る行為そのものに疲れているような……「境界というと……エクレシス」 アリシアが名を確かめるように口にした。 エクレシス──それはフェルミナ・アークの北辺に広がる区域の一つだ。人々はそこを、いつからか『眠りの森』と呼ぶようになった。 地図の一角には、煤けたように色の薄れた円が記されている。その中心に、『エクレシス』という名が殆ど消えかけた古語で刻まれていた。 そこは本来なら誰一人として踏み入ってはならない場所、命じられても欲しても、森の理は訪れを許さない。 なのに、なぜこの地図を私に? アリシアの胸裏に生まれた疑問は、声にならぬまま空気の底で揺らいだ。「その葉は普通なら数時間で崩れ落ちる。だがエクレシアの、ある一画に生える植物は三年経っても瑞々しく形を保っていられる」 男は淡々と既知の事実をなぞるように語った。「持ち帰ったのはヴィクタ